宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
本山 京都 (東)本願寺
本尊 阿弥陀如来
名号 南無阿弥陀仏
所在地 千葉市中央区星久喜町929-1
(旧所在地 千葉市中央区本町1-10-18)

 

■千葉教院開設の縁起

明治の30年代、東京の本郷に「浩々洞」という学び舎がありました。

真宗大谷派の碩学 清沢満之師を中心に若き僧侶が共同生活をしながら、浄土真宗の教えを中心に仏教を学んでおられました。
「浩々洞」設立の発起者の中に、愛知県蒲郡の常円寺に生を受けた多田鼎師がおられ、若き人々と仏教の研鑽に励んでおられました。

同じ頃、明治34年に開校した千葉医学専門学校(現千葉大医学部)に、教授と学生の方々で作られた仏教を学ぶ「樹徳会」があり、その学生の中には東京までお話を聞きに出かけておられる方もありました。
その後千葉でも浄土真宗のお話を聞く場がほしいという願いが篤くなられました。

「浩々洞」で学ぶ生活をしながら、次第に伝道の思いが強くなられた多田鼎師が、千葉医専の学生の方々の願いを伝え聞き、浄土真宗のお念仏の教えに縁の薄かった千葉の地に歩みを向けられました。

医専の学生の方々が、教授をしておられた井上善次郎博士の別宅を借りて準備をしてくださり、明治36年5月3日千葉町旭町(現千葉市中央区本町1丁目)に千葉教院・浄願寺の礎が開かれました。

当日はさまざまな職業・宗派の方々が180名ほど集まられたそうです。
街中の民家に、いきなり「仏教千葉教院」の看板が掲げられ、仏教伝道の場となったことは、周囲の方々の驚きであったようです。

以来、多田師の法友の暁烏敏師をはじめ、「浩々洞」の方々のご縁をいただきながら、少人数ながら仏法聴聞の場が続けられてきました。
数年後に蒲郡の常円寺に戻らなければならなくなった多田師の代わりに、「浩々洞」の若い方々が教務を勤めてくださいました。

その中の代務を勤めていたものの一人、杉浦秀賢師が大正12年に再び多田師の依頼により在院して、千葉教院の活動を広げられました。
当時は毎週日曜日に法座が開かれ、重篤な聞法者が増えていかれました。

昭和の時代、太平洋戦争が激しくなるにつれて、御門徒の方々も疎開で帰郷されていき、昭和20年の千葉の空襲で千葉教院は全焼し、それまでの書籍や記録も 焼失してしまいました。
空襲の後、千葉に在住の御門徒の働きで、焼け跡に仮の家を建て、布教活動を再開しました。

終戦後、残られた御門徒と、戦前より秀賢師を補佐していた杉浦縁昭師が復員されて活動に加わり、再び日曜日毎に法座が開かれるようになりました。

■浄願寺に寺号を改称

昭和30年代後半から、経済成長にあわせ千葉に多くの企業が移転してこられ、それとともに全国から移住してこられた浄土真宗の方が寺に集うようになりました。

昭和47年に、千葉教院から、多くの方にも真宗の寺と分かるように「浄願寺」と寺号に改めました。

千葉の中心に近い住宅街の中の寺のため、境内地が狭く御門徒が集まってこられるにも限界になってまいりました。平成15年に開設100年を迎えたのをご縁に、多くの御門徒が集える場所を求めて、また千葉の方々にも開放できる場を願い、星久喜の地に移転いたしました。

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