2014年3月 春の彼岸法要「往生安楽国」

春の彼岸法要「往生安楽国」
(2014年3月21日/講師 山下哲二師)

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いま、ご住職からもご紹介いただきましてけれども、お話の中心にしたいなと思いました『往生安楽国』という言葉を掲げさせていただいたわけでございます。ご住職もおっしゃっておられましたけれども、この言葉は先ほどお勤めした一番最後にある回向といわれるところにあります。お勤めしました本の六八頁にありますね。

願以此功徳(がんにしくどく)
平等施一切(びょうどうせいっさい)
同発菩提心(どうほつぼだいしん)
往生安楽国(おうじょうあんらくこく)

お勤めをしますと、必ず最後にこの回向という四句をご一緒に唱和して、お勤めを終えるわけです。これは、私ども浄土真宗ではこうした聴聞のとき、あるいはご法事のときのお経の最後に必ずこの四句が唱えられております。作法といいますか、慣わしみたいなものでしょうけれども。しかし、この言葉が最後に置かれているということは、それなりに意味があって置かれているんだと思います。

この言葉は親鸞聖人がお作りになったものではなくて、中国の善導大師という方がお作りになった偈(うた)の中に出てくる言葉なんです。善導という名前は『正信偈』の中に出てきます。お勤めの途中で区切りがありますけども、そこからあらためて「善導独明仏正意」という言葉で始まりますが、その善導のことです。善導大師は中国の方ですが、時代でいいますとちょうど唐の時代にお暮しになった方です。

唐の時代というのは、それまでの中国の歴史からすれば、最も華やかで、最も文化的に栄えた時代だといわれております。いろいろな文学も出てきておりますし、音楽も出てきます。それからお経をいろいろ勉強される方々がたくさん出てきます。しかも当時は有名なシルクロードの交通が非常に盛んになって、いわゆるキリスト教が入ってきたりしております。ですからまあ、いろいろな東の民族も来ております。そして、西の民族である日本からも、いろいろなお坊さんとか商品とかも出入りしておるという、非常に文化・経済が盛んな時代だったんですね。それはある意味でいえば、今日の日本と同じような状況であったかもしれません。いろんな人が来たり、経済活動が盛んになったり、その中で仏教も盛んになってきます。

そういう中で善導大師という方は、華やかといえば華やかだけれども、では、人が生きるということはどういうことなんだろうかと、そういうことが問題になった方なんです。それは仏教とか宗教ということじゃなくて、それ以前に、人が生きていくということは一体どういうことなんだろうかと、こういうことを尋ねていかれるんですね。
尋ねるといっても、そういうことについて教えてくださる先生がはっきりと目の前にいらっしゃるわけじゃありませんので、中国のあちらこちらを転々と人を訪ねて行かれるんです。それが約二十年ですかね。こういう方がいらっしゃると聞けばそこへ行き、またあちらにいらっしゃると聞けばあちらに行くと、そういうふうにして人を訪ねていかれたんです。

ただ、人が生きていくとこを尋ねるということにあたって、他の宗教でも、キリスト教でも思想でもよかったんだと思いますが、ただ自分が育ったところが仏教だったということがありますから、それで仏教の先生を探していかれたんです。たまたまそれが仏教だったというだけで、基本は、一体自分は何をしに生まれてきたんだろう、何のために生きようとしているのかと、そういうことが中心なんですね。

そういう中で善導大師が出遇われたのが、道綽禅師という先生なんです。この道綽という方の名前も『正信偈』の中に出てまいります。その道綽禅師に学んでいかれる中で出遇ったのが、『観無量寿経』というお経です。これは当時のインドの王様と王様のお妃の物語なんです。その二人には阿(あ)闍(じゃ)世(せ)という子供がいるんですが、その子供に幽閉されてしまいます。阿闍世というその王子は何とかこの国をいい国にしたい、豊かな国にしたいと思っていたんです。そのためには、国王であるお父さんがやっているような、仏教を中心にした国ではだめだと。他の国と戦えないというようないろいろな事情があって、自分が王になるために、父親の王様を幽閉するんですね。やがて父親の王様は亡くなってしまうんですが、その王様を助けようとした母親も牢獄に閉じ込めてしまうんです。

そういうようなことから始まっていくんですが、その韋(い)提(だい)希(け)という母親が、牢屋に入れられて何もできなくなったような状態の中で、尋ねていくんです。一体これから自分はどういう生き方をすればいいのか、何を生きればいいのかと。そこで、以前から親しくお話を聞いてきたお釈迦様と遇って、自分にとってどういうことが一番大事なことなのか、いえば人が生きるいのちですね、そのいのちに目覚めていかれる、そういう物語なんです。

そういうことが非常に大事なことなんだと、気が付かれたのが善導大師なんです。つまりそれは、物語の中の主人公の話だけではなくて、自分自身のことなんだと。自分が生きていくこと、何を生きていけばいいのか、何を喜びとしていけばいいのかと、そういうことにはっきりと目が覚まされたんです。その善導大師が、出遇った『観無量寿経』の大事なことを『観(かん)無(む)量(りょう)寿(じゅ)経(きょう)疏(しょ)』というもので表されます。その一番最初に出てくるのが勧衆偈(かんしゅうげ)という偈(うた)なんです。

勧衆偈というのは、どうぞみなさんと共にこのことに目覚めていきたいと、このお経が私どもにとってどういうふうに大事なのか、ぜひ共に学び取っていきたいと勧められている偈なんです。その一番最後に出ているのが、今日お話の題にさせていただいた四句です。「道俗時衆等」という言葉から始まるんですが、生まれてきたことの喜びとその意義、つまり初めて自分自身のいのちに出遇ったその喜びが表されてます。そしてその最後は、ただ自分だけが喜んでいるんじゃないんです。いのちあるすべての人々よ、どうかこのいのちに共に目覚めていきたいと。自分だけが目覚めて喜んでいるというんじゃなくて、共に目覚めていきたいと。そういうことが述べられている最後の四句です。そういうことを中心にお話を申し上げたいと思っております。

これは私事で恐縮ですけれども、最近、子供のことで思わされることがありました。子供が女と男の二人おりますが、二十九歳になった息子が今年の正月ぐらいにいろいろありまして仕事を辞めて、私の住んでいるところの近くに引っ越してきたんです。引っ越してしばらくして「お父さん、相談がある」といってきました。ちょっとドキッとして、一体何だろうと思ってました。まだ次の仕事が決まっておりませんでしたので、そのことかなあと。それで、「お前は一体何がやりたいんだ」と、仕事のこととして僕は聞いたつもりだったんです。そうしましたら息子から「実は、何をしていいのかわからんのだ」という返事が返ってきました。こういう仕事をやりたいんだけどもと聞かれれば、一応年を取っておりますので、ああだろう、こういうほうがいいんじゃないかと言えたかもしれませんでした。だけど「何をしていいのかわからんのだ」といわれたら、ちょっと虚を突かれたようになって答えに窮しました。

それは私には「何を生きればいいのかわからんのだ」というふうに聞こえたんです。そうしましたら、私はもう答えられなくなったんですね。いろいろ説明することはできるかもしれませんが、そういうことは自分で抱えていくしかないんですね。自分が本当に自分として生きていく意義というのは、説明したからわかるというもんじゃありませんから。こんな苦労の多い、しかも振り回されるような世の中、そして自分の身の回りを抱えて生きておるんですが、それでも生きようとする意義とはなんなのか、そういう中で見出される喜びがあるとすればそれは何なのか。私どもにはそのことがわからないでおるんですね。

今日、こうしてお参りさせていただいて、阿弥陀さんの前に立たせていただいておりますが、阿弥陀さんというのはそういうことを問いかけてくる仏様なんですね。自分は悟ったからこっちへ来いよと、そういう仏様ではないんです。むしろ、今あなたは本当に生きる意義と喜びを得ているかと、こういうことを問いかけてくれる仏様なんです。息子が言ってきたことを受けて、まあ受け切れないんですけども、そういうことを考えさせられました。
そういうこともありまして、今日こうしてご本尊の前に立ってあらためて思わせられるのは、先ほども申し上げましたが、何を生きていけばいいのかわからないでおる私どもに、人としての本(もと)になっていくようなことを問いかけてくるのが阿弥陀様なんだなと。しかも、お前が勝手に解決しろというんじゃないですね。問いかけると同時に、人としての本、人としてのいのちに目覚めるまで、また目覚めてからも、この苦難の多い人生を共に歩こうと、そういう姿を現してくださっているのがこの阿弥陀様という仏様なんです。

ですから、浄土真宗のお寺で、あるいは皆さんのお内仏にある阿弥陀様は立ってございます。他の仏様は、東大寺のお釈迦様や鎌倉の仏様は座っておられます。薬師如来も大日如来も座っておられます。まあ、見慣れてますから何とも思わないかもしれませんが、非常に珍しいといえば珍しいんじゃないですか。しかも、ただ立ってるだけじゃありません。あまり近くでご本尊を見られたことはないかもしれませんが、足が半歩前に出ております。それは、ただ立って自分の方へ来いよといっている姿じゃなくて、こちらに出掛けようとしている姿なんです。

こちらに出掛けようとしている仏様の姿というのは、先ほども申しましたように、悟りの世界をよくよくお前ら知れよという意味じゃないです。その人が何も知らないとすれば、人生の意義も喜びも知らないとすれば、その人のところに歩んでいき、寄り添い、共に歩んでいく姿を現している仏様なんですね。何故ならば、阿弥陀様はただ阿弥陀様なんじゃなくて、人が阿弥陀様に成ったからなんです。人が成った仏様。仏様というと最初から仏様だと思われますけども、そうじゃないです。人といっても、それは個人じゃないんです。先ほど善導大師のことで申し上げましたように、本当に何を生きていけばいいのか、人のいのちになるのはなんだろうかと尋ね、そのいのちに目覚めていかれた方々がいらっしゃるわけです。そういういのちに目覚め、そしてそのいのちを生きていかれた方々を仏様というんです。その目覚めよう、生きていこうといういのちのはたらきを阿弥陀様と。

そういう阿弥陀様のことを、善導大師は「無量寿」と言われます。無量のいのち、計り知れないいのち。計り知れないというのは、正体がつかめないという意味ではないです。たとえその人がどんな人であろうと、その人の中に流れているいのちという意味です。しかも人を選ばない、どのような人にも平等に流れているいのちという意味で無量寿と。その無量のいのちに目覚めた人を仏様と。ですから阿弥陀仏のことを、善導大師は「無量寿覚」と教えてくださっています。

余談ですけれども、神様は初めから神様なんです。人が神様に成ったんじゃないんです。人を神様に祭り上げるというのは、本来の神様じゃございません。昔から神様といっているのは、元から神様なんです。その神様は、私どもの願望を聞いてきださるような、お願いをするような神様です。だけど、その願望が聞き入れられるかどうかは、その神様次第です。ですから、その願望が聞き入れられたとしたら、棚からぼた餅みたいなもんで、ああ良かったなと。もしうまくいかなかったら、こんな神様は石でも投げたろうかと、こういう感じになるのが大体の相場ではないかと思いますけれども。

私の仕事場の近くに芝大神宮という神社がありまして、会社に行くときによく通るんです。朝の通勤途中にお参りをされるサラリーマンが、男の人も女の人もよくおられます。先日たまたま通りかかったときに、30~40代の若い男の方が立ち話をしていたんです。「どこへ行くんだ」と言われたその若い人が、何か仕事が成功したらしくて「お礼参りに行くんだ」と言われてました。別にそれを侮る必要はないんですけが、そうやって私どもの願望が叶えられるのか、叶えられないのかは神様次第なんです。

それに対して阿弥陀様というのは、先ほども言いましたように、私どもがこうして生きていることに苦しんだり悩んだりしているわけですが、そのことを自分の苦しみや悲しみとして一緒に歩んでくださる仏様なんです。そのことを別の言い方をすれば、何で生きているんだろうか、生きる意義とはなんだろうか、生きる喜びとはなんだろうかと、そういうことを共に考え、共に携えて歩んでくださる仏様なんです。だけど、そのときに大事なことは、自分が本当に生きる意義とか喜びがわからない、というところに立てるかということです。

例えば、今日のようにこうしてお寺に集まって法要をしたり、お話を聞いたり話し合ったりするということが、その姿をひとつ表しているんだと思います。阿弥陀様を前にして、生きることの本になるようなものを聞いていく形なんでしょう。そうしたことは、普段の生活の中の煩悩は喜ばないんですね。出掛けてくる時間も割き、交通費を掛けてということになると、煩悩は喜ばないですね。煩悩のほうは、ああ、また財布から一つ消えた、何の得にもならないということになってしまいます。けれども、そうしてまでも聞かなければならないものがあるんだという一つの形が、こうした法要となってきているんでしょう。

そして、その大事なことを表してくださっているのが、ご本尊ということですね。ご本尊といいましても、みなさん方のお内仏には南無阿弥陀仏という一言が掛かっている場合があると思いますが、その南無阿弥陀仏が阿弥陀様の名なんです。私どもに大事なことがあるんだと呼び掛け、そして私どもと一緒にその問題を抱えて歩んでくださる、そういう一言が南無阿弥陀仏という名になっているわけです。

勧衆偈のほうに戻りますと、先ほど申しました最後の四句ですが、勤行本では漢文で書いてありますし、その前のところがありませんから何のことだろうと思われるでしょう。直訳すれば、願わくばこの功徳をもって、平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生しようと、こういうことになります。それをもうちょっと意訳して申しますと、こういうことになるんじゃないかと思います。我らは生きる意義や喜びがわからないまま暮らしている。しかし、その身に見出された使命において、たとえどのような境遇であろうと、人を選ぶことなくはたらき続けるいのちに目覚めていこう。そして、そのいのちのはたらきを平等に公開し、共に自己を見出していこうとするいのちの国に生まれんと願い、そのいのちの国を生きていこうと。「願わくば」というのは願望というよりも、本当にそのことを果たし遂げたいという使命というようなことです。それから「功徳」というのは、はたらきのことです。目覚めよとか、生きていけというようなはたらきですね。つまり、人生があらためて見いだされた喜びを語っておられる偈なんです。

大事なのは、ここのところだけではわかりにくいんですが、この句の前に、自分たちがどういう在り方をしているのかが述べられていることなんです。どういう言葉かといいますと、

我等愚痴の身、曠劫よりこのかた流転せり。

「我等」というのは、私は愚痴の身ですよという意味ではなくて、人のいのちがわからないで、生きる意義や喜びがわからないで暮らしているのは自分個人というだけじゃないと。実は、この時代この状況を生きている我等は愚痴の身なんだと、そういう自覚の言葉なんですね。お前らは愚痴の身なんだと、そういうふうに上からものを言っているんじゃなくて、我われはそういう身で暮らしているじゃないかという自覚の言葉です。こういうことが大事なんです。

それじゃあ、愚痴の身というのはどういう身かというと、昔々から流転してきた身だとおっしゃっておられるんです。「流転」ということについては、曇鸞大師という方が「?蠖(しゃくかく)循環(じゅんかん)」というふうに言われています。?蠖というのは尺取虫のことです。尺取虫が葉っぱの上を、尺を取るようにして葉っぱの上を回りますけども、同じところをぐるっと回るんですね。それと同じように、私どもの生き方が同じところをぐるぐる回っているだけだと、こういうふうに流転ということをおっしゃっておられます。生まれてから年を重ねれば、体は衰えますけども、いくらかは知識が増えていきます。だけど、たとえそういうことがあったとしても、身は同じ在り方の中を経巡っているだけで、そこから出られないんだと。

そういう身の在り方について、仏教では三毒という言葉で表しております。一つは貪欲、もう一つが瞋恚、そしてもう一つが愚痴です。それは煩悩のことですが、煩悩は他にもあらわされますが、大きくまとめれば大体この三つにおさまるんですね。貪欲というのは貪るということです。自分がああしたい、こうしたいということを貪る。それは食べても切りがないですから、そのことにしか目がいかない。それで実は、大事なものを見失っていく。大事なものを見失わせるものとしてまず貪欲と。そして、貪ることで何をしようとするかというと、大事なことを抱えているその身を惜しむわけです。自分がああしたい、こうしたいということばかり貪って、人と共に歩もうとしない。人を蹴落としてでも生きていこうとする、そういう形で身を惜しむ。

これはどこにでもよくあることかもしれませんが、私も会社におりますのでよく出くわすことがあります。間違いがあったりしたときに「一体なぜそうなったのか」と聞くわけですね。そうするといろんなことを言います。「いや、あの人がいったからだ」とか「相手の会社がこういったからだ」とか言うんですが、結局間違えたことの責任転嫁なんです。自分が間違えたんだと、そこから出発しないんですね。そうやって身を惜しむ。それは私の仕事場でのことですけれども、物事や一つひとつの仕事にちゃんと向き合っているのかという問い掛けなんです。そういう問い掛けを忘れて、身を惜しむ。

それから瞋恚というのは、これは腹を立てることです。ああしたい、こうしたいということが思い通りにならなかったら、相手に対して腹を立てる。これもよくあることですね。そして愚痴というのは、そういう現実が受け取れないことです。三毒といって三つで表されますけども、基本になるのは、やはり現実が現実のままに受け取れないで、愚痴になってしまうことでしょう。つまり自分の身についても、一体自分はどういう身であり、どういう生き方をしているのかに暗い。何を生きようとしているのかに暗いといいましょうか、そのことに目が覚めない。そういう在り方を愚痴の身と、こういうふうに言い表してあります。

息子のことを先ほど申しましたが、やはり「あなたは何を生きていますか」と聞かれたら困りますよね。会社の仕事はしているとかいろいろな生活のことは説明はできるかもしれません。だけど、そのことによって本当に生きようとしているのはなんですか、あなたは何を喜びとして生活していますかと、こういうことになると本当は答えられないんじゃないですかね。

私どもは生活をするうえでいろんな境遇を抱えております。私も体の悪いところはたくさんありますけれども、病気しがちの方や、現に病気をされている方もいらっしゃる。あるいは奥さんが亡くなったとか、旦那さんがなくなったとか、子供さんが亡くなったとか、そういう方々もいらっしゃる。また、貧しい生活をせざるを得ないとか、本当に複雑な関係の中を生きていかなければならないとか、いろいろあります。そういうことを抱えているのが我々の現実なんですね。

そういう現実を抱えているところに、その現実を止めてではなくて、その現実の中において、本当に人として生きる意義や喜びということが、今、必要なんですね。三年先、五年先、十年先というんじゃなくて。いま、いろんな状況の中で、本当にこの人生を生き切っていけるような、そういう意義と喜びをいただいているかということになりますと、その答えが出てこないんですね。そういう身を愚痴の身と言い表しているんです。そして、そのことになかなか目が覚めない。

私どもは自分の力でそういうことが見つけられるように思いますけども、実は自分ではわからないんじゃないでしょうか。何故かというと、私どもは言い訳が多いんですよ。本当に言い訳は多いけども、肝心要のところが一向にわかっていない。言い訳でごまかしている。そういうことが、私どもの日常の在り方として押さえられているのが「我ら愚痴の身、曠劫よりこのかた流転して」という言葉なんです。
しかもその言葉は、そうなのかもしれないということじゃなくて、そういう身なんだとはっきり定まった、目が覚めたことを表しておられるんです。その目が覚めたということも、自分で目が覚めたということじゃなくて、やはりそこに先生がいらっしゃるんです。善導大師の先生は、道綽禅師という方です。この方も正信偈の中に出てまいります。それも、ただ先生によってということではなくて、先生の周りに集まってお話を聞いていかれた庶民といわれる人たちを通してなんです。そういう人たちや先生を通して出遇われたのが、『観無量寿経』というお釈迦様の教えなんです。

そのお釈迦様の教えを通してどういうことに気が付かれたのかというと、お釈迦様が教えてくださっているその心は、まず、あなたの身がどういう身なのかをはっきり知りなさいということなんだと。そしてそれだけじゃなくて、愚痴の身であることに目を覚ましなさいということと同時に、その愚痴のみ全体を支えているいのちに気が付いていかれたんです。どんな状況にあろうとも、どんな境遇に置かれていようとも、そこを生きよといって勧めてくださるいのちにです。そういういのち、つまり南無阿弥陀仏に眼が開かれていかれたんです。
ですからそこには、最も大事な人のいのちを見出し、教えてくださった釈尊がいらっしゃる。そして教えてくださった、人の身に流れ、生かしていこうとする阿弥陀如来といういのち。この釈尊と阿弥陀如来を二尊という言葉で、善導大師が表しておられます。この後に善導大師は、その二尊の教えによって「広開浄土門」という言葉を述べられます。

「広開」、広く開くというのは、たとえその人がどんな人であろうとも、どのような境遇に置かれていようとも、人を選ばないという意味で「広く」と。量が多いといえば量は多いですね、人を選ばないんですから。しかも、今の人であろうと、過去の人であろうと、これからの人であろうと選ばない。

そして同時に「開く」、これは公開するというふうに、公にするという意味もありますね。浄土の門を開くというと、どこかに門扉があって、それを開くということが予想されますが、そうじゃないんです。生まれた意義と喜びがわからないでいるものに、そのことに目を覚ましていく教えを明らかにすると。そういう意味で表されているのが『観無量寿経疏』なんです。ですから、浄土の門を開くというのは門扉を開くというんじゃなくて、その教えの心を開くと。それが文章になったり、偈になったりしておるわけです。そのことが、「広開浄土門」という言葉のあとに「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」という四句になっております。

はじめの「願わくばこの功徳をもって」の「功徳」というのは、これは自分の功徳というんじゃないんです。功徳というのははたらきのことです。つまり、この身を支えているいのちに、どうか目覚めてほしいといういのちの方のはたらきのことです。儲かったとか、病気が治ったという意味の功徳ではないんですね。たとえ病気をしていようが、貧しかろうが、親子や夫婦の間で問題を抱えていようが、その中で生きる意義と喜びを見出していこうとする、そういういのちのはたらきのことを功徳といわれています。ですから、その功徳は自分の功徳というんじゃないです。自分が積み上げてきた功徳ということじゃなくて、頂いた功徳なんです。「いのちに帰れ」と自分を動かしてきたいのちのはたらき、功徳を頂いたんです。

その頂いた功徳において、「平等に一切に施して」と。つまり、人を選ばずに「いのちに帰れ」とはたらきかけてくるいのちを、すべての人々に広く開いていこうと。そのことによっていのちのはたらきに触れ、いのちに帰る心を開いてもらいたいと。すべての人々といっても、環境も違えば男女の違いもあるし、年齢の違いもある。だけども、およそ人であるならば、共にこのいのちを見出していきたいと、そういうことが述べられているわけです。
その、いのちを見出していこうとする心のことを「菩提心」という言葉で表してあります。その次に「同じく菩提心を発して」とあるその菩提心のことです。いのちのはたらきによって呼び発された菩提心によって、共にいのちの国である「安楽国に往生していこう」と。「往生せん」というのは、その国に生まれていくと同時に、国のいのちを生きていこうとする歩みが始まっていくわけです。ただ「生まれた。よかった」といって、何といいますか温泉にでもつかっている気分のようなこととは違うんです。いのちの国に生まれ、そのいのちを絶えず頂いていく歩み、生活が始まっていくことなんです。

まあ、生まれた意義とか喜びというようなものは、頂いたらそれで終わりというものではありませんからね。生活していく中には、いろんな問題が次から次へと出てくるんですから。それこそ、生まれた意義や喜びというものを見失わせることが、次から次へと出てきますでしょ。それだけに、生まれた意義や喜びを新たに見出していく生活というものも終わらないわけです。そういういのちを生きるということが「往生安楽国」という言葉で表されております。ですから、安楽国に往生するということは、今までいのちのことを知らないで流転してきたその在り方から、いのちの国である安楽国を生きると、在り方が変わることなんですね。それは立場の転換といってもいいです。

先ほど申しましたように、流転している身の在り方を善導大師は「愚痴の身」と表しておられます。そして、そういう身の生きている世界を「三界流転」という言葉でよく表されますけども、三つで表されます。三界というのは、欲界・色界・無色界といいます。まず「欲界」というのは、簡単にいえば利害・損得の世界です。私などは商売の会社に勤めておりますから、まったくそういう世界です。儲かったら算盤の玉をポンと一つ上げ、損をしたら一つ下げると。それは経済的なことだけではないんですけども、つまり量るものが利害・損得なんです。そういう欲の世界を欲界といいます。

それから「色界」というのは、簡単には芸術的な世界です。例えば、ここにガラスでできたコップがありますけども、あるいは茶碗のような瀬戸物でできたものもありますね。だけど、御飯茶碗にもならないような瀬戸物を大変なお金を出して買われたりしますよね。テレビでもやってますでしょ、何とか鑑定団といって。これはいくら位するんだとは言われるんですけど、高価なものは飾って置けというんですよ。つまり鑑賞しろと。ご飯も食べられないし、水も飲めないような使い物にならないものを、何で買わなきゃならないのか。つまり、お金を費やしながら芸術を楽しもうとするわけです。そうすると、それは損得を超えてますよね。御飯茶碗だったら安いものでしたら百円か百五十円で買えます。だけどもそんなことじゃない、何百万円出しても使えない茶碗の方がいいんです。そういうことが芸術の世界でしょう。

それは、お作りになっておられる方もそうだと思います。お金になるかならないかは別にして、美しさとは何かを表されるんでしょう。それから喜びもあるかもしれません。そういうことを絵に描いたり、茶碗を焼いたりされる方がいらっしゃいます。あるいはそれを音楽にしてみたり、文章にしてみたりするわけでしょう。そういう世界を色界といわれるんです。

「色(しき)」というのはイロのことではなくて、形のことをいうんです。見たり聞いたりするものをただ書くということじゃなくて、そこに美を見出せば、それを書いたり作ったりするんです。だからそれは、人それぞれによって違いがあります。私は出版される本の材料を提供する仕事をしていますが、よくこれだけの量の本が出るなあと思いますね。特に文学作品なんかは多いんです。もうこれでいいんじゃないかあと思うこともあるんです。だけど、売れてもらわないと私も商売になりませんからね。歌とか音楽もそうですね。最近の曲なんかは僕はあまり知りませんが、歌詞を聞いているとだいたい恋愛の歌が多いですよね。あの人に会いたいとか、別れて辛いとか。歌の題材は同じように思うんですが、汲めども汲めども毎日そういうものが出てきます。そういうふうに、音楽とか文学、あるいは絵というもので託したり表現したりしていくのが、色界という芸術の世界ですね。

「無色界」というのは、これは学問、あるいは哲学とか思想というもののことです。芸術とは別に、学問するような世界です。その三つを例えると、千葉は梨の産地ですから梨でいいますと、梨が目の前に置かれたら、欲界でしたらそれを食べる。芸術の世界だとそれを何らかの形で写し取って表現しようとする。梨は食べないで、絵を描いたり写真を撮ったり、あるいは文字に書いたりする。そういうことが色界ですね。無色界になりますと、これは何から出来ているんだろうかとか、どうやったら出来るんだろうかと、そういうふうに考えるのが無色界です。

三界というと難しそうに聞こえるんですが、私どもは意外とそういうことの中を経巡っておるんですね。それで一日が終わるような感じです。その内容は人それぞれでいろいろありますけども、結局そういう中を経巡って一日が終わる。そしてまた次の日も同じようなことが繰り返されていく。つまり、そういう中で、自分がどういう生き方をしているのか、あるいは自分が本当に何を喜びとしているのか、そういうことが考えられないでいるわけです。三界流転の生活の中で生きる意義や喜びは何かと多少考えたとしても、自分だけで考えていると長続きしないですぐ消えてしまったりして、そのうちに忘れてしまいます。大事なことだとそのときは思っていても忘れてしまうんです。

先ほど善導大師がお釈迦様と阿弥陀様のことを二尊といって、その二尊の教えに乗じてと述べられていると申しました。それは、あなたが生きることにおいて、本当に大事なことは何かと問うてくる教えなんですね。大事なことというのは、生きる意義や喜びのことです。そういうことが問われるということで、初めて自分の中にそのことが疑問として残るわけです。実は、そういう疑問とか問題を抱えるということが非常に大事なんです。そういう心を開こうとするのが、二尊の教えなんです。

私どもにそういう心が開かれてきたとしたら、生きる意義や喜びを求めようとするその心は、日頃自分が了解している自分よりもはるかに大きい自分なんです。自分で了解している自分というのは、はなはだ狭いということが感じられてきますね。その狭さが知らされ、誰の人生でもない、己自身の人生が問題になったときに、自分を支えているものに気が付くんじゃないでしょうか。

そういうような、自分の狭さ小ささということと、自分を支えている大きな心があるんだということに気付いて、それを言葉として表してくださっているお一人が善導大師なんです。そして、その善導大師の教えに導かれて、親鸞聖人もまたそのことに目が覚めていかれるんです。例えば、病気が治ることやお金が儲かることが人生を解決するんじゃないんです。病気にしても、治らない病気を抱えていらっしゃる方はなおさらでしょう。しかしそういう中で、本当に大事なことは何なのかと、お釈迦様や阿弥陀様のように問いかけるという形で、私どもを支えているいのちを教え伝えてくださっているわけです。

そういういのちに気付いた言葉が往生安楽国なんです。生まれた意義と喜びをいのちとする、いのちの国です。いのちに気付き、気付いたいのちを生きていこうと呼び掛けている往生安楽国でもあります。それは、三界流転の立場から、安楽国を生きる、いのちの国を生きる立場に変わることを勧めている言葉なんです。そのことがないと、本当に生きとはいえないんだと、そういうことを教えてくださるのが本来の宗教であります。それは何宗でも結構なんです。何宗でも結構なんですが、そのことをはっきりさせなければ、およそ宗教とはいえないんですね。いずれにしても、善導大師は勧衆偈でそのいのちのことを表してくださっております。

親鸞聖人がお作りになったのは正信偈ですね。その正信偈の最後は「弘(ぐ)経(きょう)大士宗師(だいししゅうし)等(とう) 拯(じょう)済(さい)無辺(むへん)極濁(ごくじょく)悪(あく) 道俗(どうぞく)時(じ)衆(しゅう)共同(ぐどう)心(しん) 唯可(ゆいか)信(しん)斯(し)高僧説(こうそうせつ)」の四句です。「弘経大士宗士等」というのは、私どもにいのちの大切さを教えてくださった方々のことです。正信偈ではそれを代表して、七人の方の名前が取り上げてあります。なぜ教えてくださっているのかというと「拯済無辺極濁悪」、無辺の極濁悪を救わんがためであると。善導大師は愚痴の身とおっしゃいますが、親鸞聖人は極濁悪と。極めて濁っていて、悪しかできないと。つまり、いのちに気付かずに、いのちに背いていることです。それは他の誰でもない、親鸞ご自身のことなんですね。

同時に、そういう生き方しかできないものに勧められているという意味で「道俗時衆等」と。道を求めている人であろうと求めていない人であろうと、およそ人というならば、そういう時代や社会の現実を暮しているもののことです。共に心を同じくして、いのちを回復していく心において、唯この高僧の説を頂いていこうと。先ほどの善導大師の言葉とちょっと趣きが違いますけども、いのちに目覚めた方々が伝えてくださっているその説を頂いていこうと、こういうふうに勧めてくださってます。誰のために説いてくださっているのか、どういう身のものに教えてくださっているのかというのは大事なことですね。

仏教といいましても、学問としての仏教は盛んになっているのかもしれません。そういう学問とか、滝に打たれて修行するというものだけで仏教を考えることがありますけども、実はそうじゃないんです。先ほどから申しますように、誰の人生でもない、こうして生きている自分の人生がどう開けるのか、どういう喜びが得られるのか、そういうことがテーマになるのが宗教です。イスラムであろうがキリスト教であろうが、そういうことが大事なことです。高僧の説を頂いていこうといっても、それは鰯の頭も信心からというような意味のことじゃないんです。本当にこの身のいのちを受け取っていこうとそういうような意味の「信ずべし」ですね。

信心ということでいえば、先ほど阿弥陀さんが前に一歩出られていると申しましたが、前に一歩出られている阿弥陀さんに応えるのは、私どもがその阿弥陀さんに一歩近づくということです。私どもの一歩が出ることを、信心という言葉で言い表されているんです。何かを固く信じ込むというんじゃなくて、私たちがその道を歩もうと、この身のいのちを見出そうと一歩出ることなんです。阿弥陀さんにだけ、つまりいのちを表す阿弥陀さんにだけ一歩出させておいて、自分たちは何もしないというのであれば、それはないものねだりというか厚かましいものであります。もし、前に一歩出てくださっているということに気が付けば、こちらもやはり一歩出なければならんのじゃないでしょうか。

親鸞聖人は、唯この高僧の説を信ずべしといって、本当に頂いていこうと喜びをもって勧めておられるわけです。ですから、善導大師の勧衆偈とはちょっと趣きは違いますけども、生きるいのちの意義と喜びを見出し、同時に私どもに勧められているということでは変わらないわけです。今日は往生安楽国ということを取り上げさせてもらいましたが、あらためて、何を生きることが自分の人生を本当に生き切っていくことなのか、そのことを考えさせらるお言葉として取り上げさせていただきました。ありがとうございました。

(了)

[ 文責 浄願寺 ]

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