掲示板の言葉より

   凡夫は分かりました(存知) から
   私が凡夫であったとうなずかされる(信知) へ
多くの場合が、分かっていますという、理解の形をとっていますが、それは知識として自分の頭の中に蓄えただけなのです。存じております(存知)ということで終わりにしてしまっています。
仏法は私が問題になりことですから、知っているだけでは働きにならないのです。「私が凡夫であった」と気付かされたところに、仏の呼びかけが、私に呼びかけていてくださったのだと知らされるのです。そこに初めて頷きが生まれてくださるのです。信知なのです。

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